音楽を町へ持ち出すということ

 

 えいやっと、CCCDをかった。

 

 若いひとの中にはCCCDって何?ってひともいるかもしれない。コピーコントロールCDといって、かんたんに言ってしまえばコピーできないようにしてあるCDのことだ。

 

 一昔前、CDがだんだんと売れなくなっていったことを危惧したレコード会社が、CDが売れなくなったのはかんたんにコピーできるからだ、とか思って、パソコンとかにコピーできないCDを作った。

 

 それがCCCD

 

 ただ、音質も悪くなるし、コピーできないし、なによりCDを聴く機械がそのCDを入れることで壊れてしまうという致命的な欠陥があって1、2年くらいというあっという間に消えていったという、なんというか、レコード会社としては黒歴史的な存在。

 

 ぼくの一番音楽にどっぷりと浸かっていた時期がこのCCCDと重なっていたから、ぼくの大好きな曲がパソコンを経由してウォークマンなんかで聴けない、というなんとも悲しい事態が起きていて、それは今までずっと続いた。

 自分の歴史の中で、振り返ることが出来ない空白、みたいなものがずっとずっと存在しているというのは、やっぱり健全じゃあない。でも、パソコンを経由しなければ街へ持ち出せない。困ったものだ。

 

 音楽を街へ持ち出すというのは、町を作り変えることと同義だ。

andropの曲を聴きながら歩くと、町の振る舞いが規則正しくなるし

宇多田ヒカルの曲を聴きながら歩くと、町に湿り気が帯びて感傷的になるし

SUCHMOSの曲を聴きながら歩くと、町が街へと変貌するし

ぼくのりりっくのぼうよみを聴きながら歩くと、動く歩道に乗って町を見ている感覚になる。

 

 音楽を町へ持ち出すと、看板の青さや、落ちている手袋や、名前の知らない草花や、ベンチでタバコを吸うおじいさんや、すれ違う少年なんかの一つ一つが意味を帯びてくる。町の細部にまで気がつくようになっていく。そういうことがCCCDで発売された音楽たちはできない。ただ、家で固定されたプレイヤーを通してしか聴くことができない。そういう音楽がたくさん、ほんとうにたくさん溢れていた時代だった。そういう音楽たちは、僕の記憶からするすると逃げ出して、ときおり亡霊のように思い出して思い出してと語りかける。でも、町へと持ち出せないことには変わりない。困ったものだ。

 

 と思ってずっとすごしてきたのだけれど、知ってしまった。最近のパソコンだと性能が向上しまくっていて、CCCDの生みだす歪みなんて見事に補正して取り込んでくれるらしい。そこで冒頭の状況、えいやっと、CCCDをかった。

 

 おそるおそるパソコンにCDを入れて、すこし緊張した指でボタンをおすと、何か問題でも?という気軽さとともにプレイリストの1曲へと姿を変えた。その気軽さに深く深く感動してしまった。その感動のあまり、ブログを始めてしまった。

 

 明日からコピーコントロールという呪縛を抜け出した音楽たちと、たわむれながら町を歩ける。町がどんな姿になるのか、今からわくわくしている。