台所に立つ

 

 ひさしぶりに祖母の家にいった。祖母はとにかくよくしゃべる人で、ひとつ質問をなげると、いくつもいくつも答えがかえってきて、たのしい(ときおりしんどい)。祖母は大正、昭和、平成と3つの時代をくぐりぬけてきた人だ。知識欲もかなり高く、人付き合いの権化のような人なので、いろんなことを知っていて、独自の考えを持っているので話していておもしろい。そんな祖母が大好きなので、帰省したときはかならず顔を見せに、というか、顔を見にいく。

 

 祖母の人付き合いはものすごく独特だ。祖母のまわりにはいつもたべものがぐるぐるまわっている。とにかくたくさんのたべものをもらう人で、それでいて、とにかくたくさんのたべものをあげる人なのだ。あっちからもらったものの一部をこっちにわたし、そのおかえしにもらったものの一部を、こんどはそっちにわたし、という具合に、ぐるぐるぐるぐるたべものが廻っている。ぐるぐる渦巻くたべものの中心にどしっとかまえる台風の目のような存在、それが祖母だ。たべもののあげもらいをツールに、いろんなコミュニケーションがなされている。人類の経済活動の縮図を見ているようで、いつも圧倒される。富をけっして自分に集中させずに、分散させることで、強力なネットワークを作り出す。こういう人間になんとなくあこがれるので、できるだけ僕もこまごまと物をあげるようにしている。まだぎこちないこともあるのだけれど、やがて自然にできるようになりたいなあと思っている。

 

 そんな祖母と今日はなしていて印象に残ったことばがあった。年齢のせいもあってちょっと動くだけで大変、すぐに体調が悪くなる、という話の流れで「昔から体調が悪くなっても、ふしぎなもんでね、台所に立つと、しゃきっとするんよ、ほんと」といっていた。もうなんというか、すごく、わかる。僕は教育を仕事にしていて、教壇に立つことが日課なのだけれど、体調が芳しくない状況にあっても、教壇に立つとあらふしぎ、自分が体調が悪かったということを忘れているのだ。むしろ、元気になると言ってもいいような状態になるときもある。同業の人にも聞いてみても、そのように感じる人がけっこうたくさんいることがわかった。これは一体どういうことなんだろう、という疑問は、こころの奥の気になるリストにずっと置いてある。それに直結するようなことばが祖母の口からも出てきて、「ああ、おばあちゃんも同じことをふしぎに思ってたんだ」とうれしくなった。

 

 日課や仕事のように、当たり前のこととしてやること。この「当たり前のこととしてやる」ラインに一度入り込んでしまえば、それまでの日常で抱えていた不調を一旦おいておけるということなのだろう。上に書いてきた体調不良だけでなく、仕事をしている間は悩みを忘れることができる、とかいうことばも、きっとこの話に関わっている。あるいは、プロスポーツ選手たちがしばしば大切にするルーティン(ちょっとまえ、五郎丸選手のあのポーズが話題になってましたね)なんかも、おそらく関係するとおもう。人間って、日常で抱えている体調や心理状態とは別に、「当たり前のこととしてやる」ラインの体調や心理状態を瞬時に起動させることができるんだろう。違う私を今の私に呼ぶ能力、みたいなことだと言い換えられるかもしれない。この能力を研ぎ澄ませていった先に役者なんかの職業があるのかな、なんてぽわわわーんと想像をふくらませている。

 

 祖母の「台所に立つ」と、僕の「教壇に立つ」というのは、どういうわけか同じ「立つ」ということばを使っているのも実はけっこう気になっている。だけどこの話は今の段階ではうまくことばにできなさそうなので、またこころの奥の気になるリストにそっと忍ばせておこう。

 

 祖母からもらった夏休みの宿題だな、これは。