King Gnu の The hole のPVを見て

King Gnu の The hole という曲のPVを見て、これはどういうことなんだろう、と考えてみた。

 

 

 

youtu.be

 

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 男同士のキスから始まるストーリーで、お互い顔が見えない状態の写真を撮るシーンから始まる。

 

 女性が「誰かを想ったりする」様子で座っている。カフェに移動し、主人公を見つけ、目をうるませる。ところが別の男性の邪魔が入り、見つめていた男を探すが姿が見当たらなくなったことがわかる。直後に深夜のタクシーの映像。またカフェのシーンに戻り、パスタを出す男性にくぎ付けになる女性。

 

 夜、目に「ぽっかりと空いたその穴」である痣をつけ泣く女性と、それを「僕に隠さないで見せておくれよ」と抱きしめる男性。ここから二人が恋人になったこと、そして女性は主人公からDVの被害を受けていることがわかる。朝になると「そっと包みこむように」男性が女性を抱きしめ、女性の左薬指あたりを触って(おそらく結婚を匂わせて)いる。

 

 サビが終わらない段階(「ぼくが傷口になるよ」)、つまり先ほどの女性の恋人との文脈が終わらないうちに、主人公は再び片耳イヤホンの状態でスマホに入った連絡を見る(サビが終わらないうちに、女性の恋人から男性の恋人の部屋に移動することから、区切りの悪さを伴った関係が描かれている。また、片方だけのイヤホンで、耳という「ぽっかりと空いた」穴を完全に塞げていないし、完全に見せてもいないという状態が、主人公のどちらの愛にも深入りできない状態を表わしている)。連絡を受け、すぐさま自転車を走らせ恋人の男性の部屋へ行き、一夜をすごす。二人で迎える朝、主人公は朝食を、恋人はたばこを吸っている。主人公のスマホに(おそらく女性の恋人から)連絡がある。男性の恋人はそれをずっと見ているが、主人公が気まずそうに目線を送ってきたため、顔をそらす。

 

 シーンが変わり、主人公と女性の恋人が楽しそうに海で遊んでいる(歌詞では「逃げ出せばいいよ。全て放り出せばいいよ。ささいな拍子に壊れてしまう前に」と流れているので、この楽しさの背後にある暗い影が表現されている)。しかし、帰り道では二人は不穏な雰囲気になっている。「愛を守らなくちゃ、あなたを守らなくちゃ」とお互い我慢しているが、結局、車を停めてケンカを始めてしまう。「ぽっかりと空いたその穴」を主人公が女性を抱きしめるという(一度目のサビの時と同じ)仲直りの仕方をする。女性は決して手に収めることができない太陽を掴もうと手を伸ばす。

 

 サビの「ぼくが傷口になるよ」という部分、つまり先ほどの女性の恋人との文脈が終わらないうちにシーンが変わり、主人公は恋人の男性の部屋でニューヨーク行きの飛行機のチケットを見つける。

 

 シーンが変わり、主人公は職場で片方だけイヤホンをして掃除をしている。そこにキャリーバックを持った男性の恋人がやってきて、主人公に突然キスをする。そして冒頭にあったように、カメラを取り出し「愛を守らなくちゃ」と二人とも顔がうつらないように写真をとる。そして「あなたを守らなくちゃ」と二人は離れ、(おそらく、じゃあ、の言葉だけを残して)去る。ここで、方耳をふさいでいたイヤホンが外れた状態になっているのがアップになり、(シーンが変わって)主人公はシャワーに打たれ、崩れ落ちている。その時、おそらく恋人の女性からかかっていた着信が切れる(待ち受けは白日のジャケット)。

 

 しばらく経って女性のところに行くと、女性は部屋を荒らしており、手にははさみを握った状態でこちら見て、すぐさま襲い掛かってくる。主人公は枕を盾にはさみを受けたので、辺りが羽毛でぐちゃぐちゃになる。疲れ切った女性は外へ走り去る。それを追って男性は街を探し回る。(このとき「飛沫をあげて」の歌詞のドラム音と主人公の歩幅が一致しているので、直後のドラム音のダダダンという部分で主人公に何かがあったことがわかる。それに合わせて)女性が振り返ると、車が横転しており、裸足の恋人が近づいていくと主人公が車にひかれて意識を失っているのを見つける。

 

 二人のキスシーン、一人で言葉を飲み込む女性のシーン、きれいな二人の部屋のシーンで終わる。

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・謎の冒頭のシーン

 冒頭のシーンは後から出てくることから、時系列がずれていることがわかる。では、どこがこのストーリーの時間軸で最初なのか。それは女性がカフェで主人公を見つけ驚き、探すけど見つからず、直後に夜のタクシーのシーンに移るタイミングだ。初見ではなんで夜のタクシーなのかわからなかったのだけど、ここで時系列が変わると思えば納得がいく。つまり、冒頭の女性のシーンは主人公が死んでしまった後(PVの最後の続き)なんだろう。だから「誰か(=死んだ主人公)を想ったりする」様子で座っているし、カフェで主人公を見つけた時、いるはずのない主人公の登場に驚くし、すぐに消えてしまう(単なる見間違い)。夜のタクシーでは出会った頃のことを思い出しているのだろう。直後に(思い出された過去の、主人公に初めて出会った)カフェでのパスタのシーンへと移る。このシーンがこの物語のスタート地点ということ。

 

 

・男性の恋人との関係

 二人で迎える朝、主人公は朝食を、恋人はたばこを吸っていた。このバラバラの関係は、二人が違う方向を向いていること意味している。主人公の男性のスマホに(おそらく女性から)連絡があり、気まずそうに恋人を見る。それを見て、恋人は顔をそらす。ここからも二人のすれ違いが表現されている。飛行機のチケットに関しても、主人公は問い詰めたりせず、破局まで穴に蓋をしている。カメラを取り出し「愛を守らなくちゃ」と二人とも顔がうつらないように写真をとる。そして「あなたを守らなくちゃ」と二人は離れ、おそらく、じゃあ、の言葉だけを残して去る。ここからは、恋人の男性なりの愛の守り方、「あなた(=主人公)」の守り方が見えてくる。愛を守る方法は写真を顔が見えない状態で撮ることで、「あなた(=主人公)」の守り方は別れを告げるということだった。顔が見えなければそのとき何を感じていたかを表わす表情が写真には残らなくなる。二人が抱き合っている姿が余計な感情を含まずに完全な形で保存される。一方、「あなた(=主人公)」を壊さないように守るためには別れが必要だった(それはなぜかわからないけど)。恋人の男性は主人公を複雑な形で愛し、それを守ろうとして、冒頭のような行動に出たのだろう。

 

・主人公の待ち受けが「白日」のジャケット

 単なるkin gnuを匂わせるお遊びなのかもしれないけれど、「白日」が、過去を真っ白にして真っ新に生まれ変わることなんてできず、過去を引き受けて生きていくしかない、というテーマだったことから考えると、ぽっかり空いた穴(過去の影響)を塞ぐ(真っ新に生まれ変わる)のではなく、傷口になる(過去を引き受けて生きていく)という The hole の歌詞は、重要なポイントでは一致しているのだろうなあ。

 

 

 主人公は、自身の穴も、どちらの恋人の穴も、塞ごうとするけどできず、最終的に自分が死んでしまうことで、結果的には恋人の傷口になった。恋人はAメロ辺りで、死んだ主人公を想いながら暮らしていることから、過去を引き受けて生き続けているんだろう。

 

 

相手の背景に沈む

 

 年齢を重ねていくと何が変わるんだろうか。三十代半ばになって、少しずつなのだけれど、相手の背景に沈む、ということをじんわりと実感するようになってきた。誰かにとって、僕は図ではなく、地として位置付けられているようなあり方で、存在する。そして、そういう関係性として誰かと交わることが、ふつうなのだということを実感する。という感じですかね。

 

 若い人と飲んだりしていると、ああこの人は今はとても楽しそうに僕と時間を共有しているけど、きっと何年後かには僕のことを忘れてしまうのだろうな、という気持ちがベース音のように楽しい時間とともに流れている。僕も一緒に過ごしたいろんな人を忘れてきただろうし、これからも忘れていく。それと同じように、僕もこの人には忘れられていく。そういう気分がだれかとの楽しい時間にだいたいセットされるようになってきた。ほんの少し哀しいとは思わないわけではないけれど、だからといってその哀しみがメインであるわけでもない。そして、別にだれかと過ごすことが無駄だとは全く思わない。結局、その誰かに忘れられたとしても、地として、その誰かの存在の一部になっているのだから。むしろ、いつか地として忘れられるからこそ、今、図として僕のことを見てくれている相手との楽しい時間を大切に過ごせる、ということでもあるのかもしれないなあとも思う。

 

 基本、誰かにとって僕は忘れられる存在だ。そういう当たり前のことが、言葉の上でなく実感として言えるようになったこと。これが最近の変化、なのかもしれない。

 

 

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君の落としたハンカチを君に手渡してぼくはもとの背景にもどった

                      斉藤斎藤『渡辺のわたし』より

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米津玄師に共感できないのに

なんだかほんとにほんとに今更のことなのだが、昨年末の紅白についてここ半年くらい考えている。ぐるぐる頭をめぐっているのは米津玄師についてだ。

 

なんというか、感動した。じーんときた。その余韻が半年たった今でも、あれは一体なんだったんだと、こんな記事を書くに至るまで膨らんでしまった。紅白を見た友達と紅白について話したりすると、軒並み揃って「米津玄師がすごい良かった」とぽろっともらしていた。ほんとうに素晴らしいパフォーマンスをしてくれて、ありがとう、という気持ちでいっぱいだ。

 

で、だ。ぐるぐる頭をめぐっていることは、米津すげー!!ってことではない。そうではなく、なぜ米津の歌に感動したのか、ということ。

 

紅白で歌われた「Lemon」は、今調べてみると、セールスとしてはDLCD合算でトリプルミリオンを達成した名曲である。でも、はっきり言ってしまえば、あの感動した「Lemon」の歌詞は、読んでいると全く共感できない。びっくりするくらい共感できない。300万もの数字を前にしては、自分の感性の方がおかしいとは思うけど(だからといって別にどうも思わないが)、やっぱり共感できない。別れた人を未練たらたらに歌っているようにしか聞こえない。別れた人をそういう目線で見ることがないので、全然共感できないのだ。そして、それはPVなんかを見ていてもやっぱり同じように感じていた。

 

なのに、ほんとうに、なのに。紅白で「Lemon」を聴いたとき、ものすごく共感してしまった。さっきも言ったように、僕は別れた人に未練を感じるような、そういう気持ちを持ち合わせていない。にもかかわらず、未練たらたらのあの歌詞にすっかり共感して、じーんときたのだ。なんということだ。なんということでしょう。なんと、紅白のあのパフォーマンスによって、自分が持つことのない感情を感動レベルにまで追体験させてくれた、ということなのだ。例えば、今歌詞を見ても、PVを見ても、やっぱり未練たらたらで共感できねーな、くらいの感想なんだけど(曲はめっちゃ良いので好きです)、録画した紅白の映像を見ると、結局じーんときちゃう。

 

そんな感情を引き出してくれた米津玄師に対して、米津すげー!!って思わずにいられない。頭をめぐっているのは、米津すげー!!ってことではないって書いたけど、でも、やっぱり米津すげー!!って話になっちゃいました。あるいは、歌ってすげー!!なのかもしれないけれど。

普通って難しい

 

普通が一番難しい。

こういう言い方、けっこうあちこちで聞きますよね。

 

普通に学校を卒業して

普通に就職して

普通に働いて

普通に結婚して

普通に子どもを育て

普通に定年を迎え

普通に老後を過ごす

 

みたいな。

なかなかそういうコースをたどれない、

たどれていたとしても本人の主観からしたら必死だ、

そういう意味で使われる「普通が一番難しい」。

 

この時の「普通」って、「平均的な」くらいの意味ですよね。

そういう意味としての「普通が一番難しい」って言葉は

割とどうでもいい、というのが正直なところです。

うだうだと続く悩みに対して「でもまあ、普通が一番難しいよね」ということで

「はい、この話、終了!」くらいの使われ方をしてるな、と思うくらいです。

 

で、なんでタイトルにそういう言葉を選んだかというと

やっぱり「普通って難しいなあ」って思ったからです。

でもそれは、決して「平均的な」という意味の「普通」ではありません。

 

ここ数年、いろんな人に仕事についてインタビューをしています。

そのインタビューをこまかにこまかに分析していくと、

彼らが「普通」にこなしているいろんなことが、

その仕事をしていない部外者である僕にとって、とてもできない!

とついつい考えてしまうような仕事上の振る舞いであることがわかります。

 

例えば、ある看護師の話。

入院病棟などで患者のケアをしていると、患者の吐瀉物やおしっこなどが

何かの拍子で自分の身体についてしまうことがあるそうです。

もし自分だったら、と考えると、他人の汚い体液が体にかかってしまったら

何度も何度もその部分を洗ってしまいそうだし、

その後もまだ「汚れてる感」みたいなのが残ってしまいそうで

とてもその手を使ってご飯とか食べられそうもありません。

が、その看護師の感覚では、手洗いのマニュアルに沿って手洗いをしたら

もうその瞬間に汚れについて忘れてしまう、とのことでした。

これって、単にマニュアルに沿った洗い方をすればいい、という話ではなく

手洗いのマニュアルに沿った洗い方をした際に

「汚れを忘れる」という感情のコントロールが同時にできる

ということです。

汚れをずっと引きずっていれば、その後の業務に差し障りがでてくる。

つまり、手洗いのマニュアルと感情を同期させて初めて

看護師という仕事が「普通」にできるようになるわけです。

もちろん、手洗いのマニュアルと感情を同期させることは

看護師が「普通」に仕事をしていくことを可能にさせる

小さな一部分にすぎません。

もっともっとたくさんのことができるようになって

始めて「普通」に仕事ができるようになるわけです。

 

当然のことですが、この「手洗いのマニュアルと感情を同期させる」ということは

その看護師には職業上必要であった、ということであって

僕の仕事に別に必要のないことです。

こういった感じで、「普通」に仕事をこなしていくのに求められる能力は

職業ごとに異なるわけです。

そして、他の職業がやってる「普通」は、

自分から見たら信じられない能力を駆使している、ということです。

もう少し正確に言うなら、同じ職業でも部署によって「普通」は違うでしょうし

同じ部署でも、担当している仕事によって「普通」は違うでしょう。

もっともっと正確に言えば、同じ仕事を担当していても

人によって「普通」に仕事をこなす経路は人それぞれいろいろあるはずで。

 

そういう風に考えていくと

「普通が難しい」というときの「普通」は

決して「平均的な」とかいうものではなくって

「個別的な」いろいろ方法を用いて達成されるもので

その「個別的な」やり方は、外から見ると信じられないような能力を駆使している

ということもけっこうあるんじゃないかと思うわけです。

 

普通が一番難しい。

そういう意味での「普通」なら、確かにそうだなあ、と

つよく、つよく、頷けます

 

 

時代が変わることの豊かさ


時代が平成から令和にかわりますね。

時間の感覚ってふしぎですね。
本来ならなんでもない時間の流れのなかに
チョキチョキと切れ目をいれて、
それでそわそわしてしまう。

天皇制が根付いているからこそ、
今回の令和への移行にもそわそわしてしまう。
ニュースはずっと天皇の動きを報告しているし
テレビは特番をひっきりなしに流しているし
SNSも平成のふりかえりや、令和への抱負があふれてる。

元号という、時間をはかるものさし以外にも
西暦もものさしとして、しっかり機能していますね。
そういえば日付とかもものさしですね。
1週間が終わるとどこかほっとした気持ちになったり
そわそわしたり、また今週がはじまる…ってうなだれたり。
本来ならなんでもない時間なのに、切れ目で気持ちが動いている。
納期やレポートの締切なんてのも、ものさしですね。
締切が近づくとそわそわしたり、慌てたり。
締切があるからこそいろんなことができるわけですが。

でも、個人レベルで見ていくと、ものさしはもっとたくさんあって
誕生日と年齢なんかその最たるものです。
本来ならなんでもない時間の流れのなかに
チョキチョキと自分の生まれた日によって切れ目をいれて、
それで切れ目を超えるときにそわそわしてしまう。

そのほかにも、付き合って何年目とか、社会人何年目とか
結婚記念日とか、おじいちゃんの命日とか、趣味のカメラを始めて何年とか
そういう言い方はぜんぶ時間の切れ目に伴う感覚の話。
わざわざ客観的な日付を使わなくても、
もうそろそろ、とか、ずいぶんながく、とかそういうのも
時間の切れ目に伴う感覚の話に組み込める。
もうそろそろ火が通りそうだ、とか
ずいぶんながく付き合ってるなあ、とか。

盛り上がったり、しみじみしたり、
愛を再確認したり、感慨深くなったり
いろんな整理と気持ちを時間の流れにもちこんで
人生を細やかに織り込んでいく。
いろんな時間のものさしを持っていることが
その人の生活を豊かにしてくれる。

だから、時間のものさしは
できるだけたくさんあった方がいいと思うんです。
できるだけたくさんのものさしを持つ人が豊かな生活を送り
できるだけたくさんのものさしを持つ国が豊かな文化を楽しむ。
そういうものなんじゃないかな。

ものさしはできるだけ少なく、シンプルに。
というのは精神的な貧しさの始まりとしてみた方がいい。

あなたはまたきっとこんなことをするでしょうね

 

 少しずつ、少しずつ、どういう人と仲良くやっていけばいいだろう、と考えるようになった。いろんな人と知り合っていって仲良くしていっても、どうも深い話ができないなあと思うことや、なんだかこの人とやり取りするのが少ししんどいなあ、と思うこともある。会って楽しいけれど、こちらが一方的に仲良くやっていくために頑張っているなあと思ってしまう人。向こうの気分が良いときはやり取りしてても楽しいけど、機嫌が悪いと一気に雑なラインを送ってくるような人。たくさんの人とやり取りしていると、その分だけたくさんの関係性が生まれるわけで、どの人との関係を今後も続けていきたいか、それ以上に、疲弊せず続けていけるのか。

 

 なんとなくだけど、僕がやり取りの上で大切にしていることを大切にしている人と仲良くしていきたいなあと、さいきん思う。たとえば、気分屋にならずに極力楽しい寄りに安定していたいとか、たとえば、相手と自分の自己開示はおなじくらいでありたい、つまりは、聞くからには話すし、聞かれるからにはこちらも聞き返すとか、そういうこと。

 

 でもこういう「大切にしていること」は、ある程度ことばにできているので、まだマシで、会ったときにどうしても拭えない違和感というのがある。しんしんと積もっていくような不快感が、ことばにできないからこそ、気がつかないうちにずっしりとした重さとなってバイバイのあとの疲れをうんでしまう。ことばにできないからこそ、似たような違和感をうむ別の人と、仲良くなろうとして、また失敗してしまう。

 

 「あなたはまたきっとこんなことをするでしょうね」

                      舞城王太郎『深夜百太郎 入口』p.356

 

 ほんとだよ、ほんとに何度も何度もおなじような失敗を、それも取り返しのつかないような失敗を、してしまう。ことばにできないから、くりかえすし、ことばにできても、くりかえしてしまうのかもしれない。このくりかえしくりかえし巡ってくる失敗から、少しでも遠ざかるために、どういう人と仲良くなっていけばよいかを、いや、どういう人と仲良くならなくてよいかを、見極めていけるようにならないとだな。

 

 

予定を立ててホテルに泊まる

 広島出張に行ってきました。出張は半年前から決まっていたんですが、ホテルを取ろうと動きだしたのが出張のほんのちょっと前だったので、連休中ということもあり、出張先まで1時間半くらいかかる場所、しかもいつもの倍以上の値段という、なんとも切ない場所に宿泊することになりました。おかげで移動はたいへんだったし、お金も出張費を大幅に超えて赤字です。

 

 ホテルを予約するのが、ほんとうに嫌いです。ほんとうに嫌いなのは、ホテルを、ではなく、予約をすることなのですが。僕は予定をたてることがとても苦手で、とっても苦しくなる。早く予定をたてて動いておけば、今回みたいなことにはならなかったんでしょうけど、それでもやっぱり予約という活動に、万力でしめつけられるような苦しさが伴うんです。

 

 予定をたてると、それに向かって心積もりもできて、それに向けてテンションをあげていけるじゃん!と、予定をたてるタイプの人は言いますが、まさにそれが苦しいんだけどな。手帳に予定がびっしりつまってるなんて、ほんと勘弁してよねって思ってしまう。ほんとに。予定をたてるのが苦手なので、来週の水曜日あいてますか?みたいな遊びの誘いも、実は心のため息とともに、うん空いてるよー!って笑顔で答えている。音楽が好きなんだけど、ライブにはなかなか行けない。というのも、ライブにはチケットがつきもので、チケットとは予定が形になったものに他ならない。海外にはあちこち行きたいなあとは思うけど、おんなじ理由で旅行はいつも国内です。前日の夜中なんかにむずむずしだして、次の日の朝の新幹線に乗って目的地にいく、そんな一人旅がとても好きです。仲良くしたい人がいても、その人が忙しいと必然的に予定をたてないといけなくなっちゃうので、たまたま何回か遊べたとしても、結局は疎遠になってしまうということもしょっちゅうで。なかなか面倒くさい指向性だなあと思ってしまう。

 

 何かが決まっている、という状況があまり好きではないのかもしれません。何も決まっていない、という状況を愛しているのかもしれません。よくわかりません。いままでこんなかんじに生きてきたので、たぶん、これからもこんなかんじに生きていくんだろうな。こういう時間感覚?未来感覚?を共有したいとはまったく思ってはいませんが、すくなくともこういう感覚とうまく付き合える人とは仲良くしていきたいなあ、とは思います。