相手の背景に沈む

 

 年齢を重ねていくと何が変わるんだろうか。三十代半ばになって、少しずつなのだけれど、相手の背景に沈む、ということをじんわりと実感するようになってきた。誰かにとって、僕は図ではなく、地として位置付けられているようなあり方で、存在する。そして、そういう関係性として誰かと交わることが、ふつうなのだということを実感する。という感じですかね。

 

 若い人と飲んだりしていると、ああこの人は今はとても楽しそうに僕と時間を共有しているけど、きっと何年後かには僕のことを忘れてしまうのだろうな、という気持ちがベース音のように楽しい時間とともに流れている。僕も一緒に過ごしたいろんな人を忘れてきただろうし、これからも忘れていく。それと同じように、僕もこの人には忘れられていく。そういう気分がだれかとの楽しい時間にだいたいセットされるようになってきた。ほんの少し哀しいとは思わないわけではないけれど、だからといってその哀しみがメインであるわけでもない。そして、別にだれかと過ごすことが無駄だとは全く思わない。結局、その誰かに忘れられたとしても、地として、その誰かの存在の一部になっているのだから。むしろ、いつか地として忘れられるからこそ、今、図として僕のことを見てくれている相手との楽しい時間を大切に過ごせる、ということでもあるのかもしれないなあとも思う。

 

 基本、誰かにとって僕は忘れられる存在だ。そういう当たり前のことが、言葉の上でなく実感として言えるようになったこと。これが最近の変化、なのかもしれない。

 

 

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君の落としたハンカチを君に手渡してぼくはもとの背景にもどった

                      斉藤斎藤『渡辺のわたし』より

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