壊れると うれしい

 

 コップが割れていた。

 

 気がつかないうちに、お気にいりのコップがひっそりと割れていた。無印で買ったボデガというコップで、サイズもとっても使いやすくって、ずどんとしたすがたが可愛らしい。ほかのコップがあってもついついボデガに手がのびていた。そんなコップが割れてしまった。というか、割れていたのを発見してしまった。

 

 たぶん、洗いものをしていたときに雑にかさねてしまったんだろう。食器は雑にあつかったら割りとかんたんに壊れてしまう。こうやってときおり生活のなかに「食器が壊れた」がひょいと現れて、雑なくらしかたをしてしまいがちな僕にストップをかけてくれる。

 

 なにか失敗をするときって、けっこう雑にふるまってしまったことが原因だったりする。今回みたいな、お気に入りのなにかを壊してしまったり、仕事であったり、人間関係だったり、それはいろいろなのだけれど、ちょっとした雑さが失敗に手招きする。その度に、ちゃんとしっかり丁寧に生きないとだな、と思うのだけれど、どうしても丁寧さと雑さの波がうまれてしまい、高波のときに大きな失敗をしてしまったりする。中くらいの波からうまれた中くらいの失敗で、自分の雑さに気がつくようになっていくことが、大人になっていくことなのかもしれない。

 

 コップが割れた話だった。食器が割れたりすると、かならずあることを思い出す。それは母がいっていたことだった。あるとき、僕は今日とおなじように何かの不注意でコップを割ってしまった。そのことを母親におそるおそる伝えた。すると「わっ、うれしい!」と言ったのだった。どういうことかわからない顔をしている僕をみて「だって、これで新しい食器が買えるでしょ?」と。そのコップをずっと大切に使ってきた母親がそんなことを言うなんて、なんだか粋だなあ、と思ったのを強くおぼえている。ずっと大切にし続けていても、いつかは壊れてしまう日が来る。そのときに、ずっと大切にしてきたからこそ、その食器の良さを存分に引きだしてきた歴史があるからこそ、すっと次へと進める。

 

 この言葉があるから、大切な食器が割れてしまうというショッキングな出来事が起きたときも、いつまでも引きずらずに次の食器へと目を向けられる。その大切な食器とともにあった生活から、未だ見ぬ食器とともにある生活へと、生き方を変える節目に見えてくるから不思議だ。これまで経験したことがない生活へのわくわく。大切なものが壊れるということは、そういう意味もあるのだろう。悲しいと、切ないと、わくわくが、欠けた食器にたち現れてくる。

 

 これからしばらくは、町を歩くときコップを探しながら歩くことになるんだろう。