部屋の広さと狭さ

 

 地元は観光地なので、偉人の旧宅やアトリエの再現みたいな場所がちょこちょこある。そういう場所にいくと、なんだろう、あれ?思ったよりせまいな、という感覚が生まれてくる。旧宅や、アトリエって、基本的には何も置いていない。何も置いていないってことは空間を広く見せるはずなんだけど、なぜか狭く見えてしまう。

 

 これはどうしてなんだろう。思うに、生活がないから狭く見えるんじゃないか。そこに座ったり歩いたりしている人がいない空間、そこに整理整頓からはみ出したものがない空間、そこに暮らしている人の香りが感じられない空間、そういう空間は物理的には広いんだけど、心理的にはとてもとても狭い。

 

 そこにいる人には歴史があって、未来があって、いるだけで広がりを持っている。整理整頓できずに散らばった何かには、そうなってしまう理由がそこに生まれる。そこに暮らしている人の香りは、その人がそれまでどう生きてきたかを語っている。こういった要素のひとつひとつが物語をもっていて、必然的に時間という幅が生み出されているんだろう。そういう物語のある空間は狭くても広く感じるし、物語のない空間は広くても狭く感じる。

 

 広島平和記念資料館のことを、いまふと思い出した。ここに展示されているものは、弁当箱だったり服だったり、ひとつひとつはただの物体なのだけれど、そのひとつひとつに持ち主の物語がキャプションとして付けられていて、ひとつひとつの物体が「物体としては見ることのできない何か」として立ち現れてくる。ただの物として見れば、資料館なんてさささっと短時間で見ることができるはずなのに、それがうまくできない。空間の密度がぐぐぐぐぐぐぐっと高まっている。必然的に、とてもとても広く感じる。そういう場所なのだ。

 

 物語のない空間というのが、少し前から人気があるように思う。ミニマリスト、断捨離なんてワードが特集を組まれるほど、最低限であること、何もないこと、ごちゃごちゃしていないこと、そういったことへの憧れを持つ人たちがきっとたくさんいるんだろう。でも、そういう活動は、自分の住む生活の中からできるだけ物語を取り除くような動きに僕には見える。ひとつひとつの物には歴史があるし、未来がある。それも、ある角度から見るとこういう歴史(未来)だけど、別の角度から見るとまた違った歴史(未来)が見えてくるような、重層的な歴史と未来を担っている。そういったものを極力排除していくということは、なんというか、自分の知っている歴史と自分のわかる未来のみで空間を構成しようとしているように、僕には見えているんだろう。空間のすみずみまで自分のコントロールの影響下に置く、そういう動きに見えてしまう。

 

 でも僕は、自分ではコントロールできない何かが自分の領域にあってほしい。自分がまだ掘り起こしていない物語が自分の生活にあってほしい。

 

 そうなのか。

 

 すみずみまでコントロールの影響下に置いた空間って、今がベスト、ってことなのか。今が一番よくて、異物がはいってきたときに、ベストじゃなくなって、片付けたり、捨てたりすることで、ベストに復元する。逆に、空間にコントロールの及ばない領域があると考える場合、今はベターなんだ。ベストじゃない。まだ掘り起こしていない物語がある日突然見つかるかもしれない、そういう空間。

 

 こういうのって、どっちが良いというわけでもなく、どっちが好きか、というものなんだろうな。あるいは、どっちが(生活として)広く見えるか、みたいな感覚の違い。あるいはあるいは、世界観の違いとでも言ってしまっていいかもしれない。僕と世界観がかなり違っている人にとって、冒頭の偉人の旧宅が狭く見えるという話も、まったくぴんとこないんじゃないだろうか。そういう「僕のコントロールの影響が及ばない」領域がブログという空間にもあるというのは、なんだか部屋のように思えてくる。

 

 このブログは、どういう部屋になっていくのだろうか。