帰省中のじぶんって

 

  お盆なので帰省している方もいらっしゃるかと思います。実家から遠く離れて住んでいると、じぶんの地元で使っていることばとは違うことばを使って、ふだん生活をしているのではないでしょうか。たぶん分かってもらえると思うのですが、地元のことばを使っているじぶんと、ふだん生活をしている場所のことばを使っているじぶんとは、どこか違う。単にことばが違う以上に、違う。

 

 ぼくの場合、まず話すスピードが変わります。地元のことばを使っているときはかなりゆっくりなスピードで話すんですが、京都(ふだん生活しているところ)ではわりと早口になっています。

 

 それから、スピードが変わることとたぶん関わってくることなのですが、話す内容が違う。スピードが変わるということは、時間あたりで伝えることの情報量が当然変わってきますから、京都にいる自分はかなり情報伝達に重きをおいた話し方をしているのかもしれません。でも、地元のことばを使っているときは、なんというか、共感重視の話し方になっているように思います。「暑いね」「どうしようもないね」「おいしいね」みたいな「ね」の使用量がぐぐぐっと増えているんじゃないかな。

 

 共感重視に関わることですが、世界の「何を見るか」がたぶんぜんぜん違う。京都にいるときと違って、自然の細部のゆらめきみたいなものに、かなり敏感になっている。実家は山のふもとにあるので、そもそも自然の変化が生活にかなり直結するからだと思うのですが、山の色や、鳥の鳴き声とか植物の緑のことなりや、雲の動きなんかに目がいってしまう。それが情報価値をもつ生活をしているのだから、それについて触れる会話が必然的に多くなります。

 

 世界の「何を見るか」と連なって、味に関する鋭さも増していることに、今回気がつきました。卵の香りやうまみのわずかな差について実感できるようになっていたんです。ほかにもいろんな食べ物の味や香りについてかなり鋭くなっているようでした。これも、それが情報価値をもつ生活をしているからで、自然の変化と生活が直結していることとまっすぐ繋がっているんだと思います。

 

 どんどんと「ことば」の領域をこえて、「人としてのあり方」の違いにまで、変化がおよんでいますね。もちろん「人としてのあり方」は話し方につながっているから、こういうことに気がついたのでしょう。実家とふだん生活をしているところでは、人が違う。

 

 でもこれって、当たり前のことといえば当たり前ですね。家にいるときと、仕事をしているときでは、人が違う。ともだちと会っているときと、職場の人と話しているときとでは、人が違う。Aさんと話しているときと、Bさんと話しているときとでは、人が違う。極論、家にいたとしても、今日と昨日では、人が違う。置かれている状況が変われば、それにあわせてじぶんが変わっていく。そういうことなんでしょうね。この「置かれている状況」をいかに細かく認識できるかが、きっと人としての豊かさに関わってくるんじゃないでしょうか。「本当のじぶん」「素のじぶん」「じぶんらしいじぶん」ということばには懐疑的なんですが、それはこういう考え方のせいなんでしょうね。

 

 まあ、でも、一瞬一瞬で人が違うみたいな話をしても仕方ない(きりがない)ので、今回は帰省中のじぶんのおはなしでした。